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奇妙なダンスへのダイヤモンド水と

音言遊戯帖第82集

  

    И Алмазная вода в странный танец

❏ 2011.5.08-5.15 

❏ Два восьмидесятый том тетрадей для игры звука слова 

 

 

Девяностый том тетрадей для игры звука слова Звук,звукозапись,стихи,Фото.и дизайн:.ОНЮГИ. Программное оборудавание, Cakewalk/MUSIC CREATER 5. ZOOM Handy Recorder H1.Shure SM57 микрофон,Cardioid DM-876S микрофон и Yamaha MV802 Хроматической насторойка,MT-1200,TU-12H. Зписался на звукстудии ругнои работы ОНЮГИКАН. 08~15 Мая 2011.     URL:http://onyuugi.wix.com/onyuugi/ Блог :言遊戯帖:http://kotoyuugi.seesaa.net/ 音遊戯帖:http://onyugiguitar.seesaa.net/ Email:onyuugi@infoseek.jpMusic,recording,poem,photo and sleeve design by onyugi. Recording application software Cakewalk/MUSIC CREATER 5. ZOOM Handy Recorder H1.Shure SM57 microphone,Cardioid DM-876S microphone, and Yamaha MV802. MT-1200 Multi temperament tuner,Chromatic tuner TU-12H, Recorded in The Handmade Studio ON YUGIKAN. 08~15 Мая 2011.     URL:http://onyuugi.wix.com/onyuugi/ Blog :言遊戯帖:http://kotoyuugi.seesaa.net/ 音遊戯帖:http://onyugiguitar.seesaa.net/Email:onyuugi@infoseek.jp

使用楽器・音具 Музыкальный инструмент/Звонкои инструмент

 

 

ギター10・Acoustic guitar(TAKAMINE・TSA800)

ブルースハープA

ブルースハープE

ブルースハープF

錦石

YouTube

 

3:44 5:12  5:06  3:19  2:52  6:27  4:24  5:30  5:39  5:46  2:08  4:24

 

Общее время звучания Total time 54:29

各曲には長い沈黙が収録されています。ご注意ください。

奇妙なダンスへのダイヤモンド水と

 

奇妙なダンスへのダイヤモンド水と、実は自分本位への自然的態度のさかさまに、おそらくは絵に描いた餅なのだろう。眠りは浅く、思考も浅いけれど、それでもアルファベットのように立派な組織の一員でもあるし、証書に負けないだけの心電図だってぶら下げている。いくら秒針に追い抜かれたってかまわないし、奥のゴミ箱は不満でいっぱいだ。ビニールだけは傘にしたくないと気負ってみたけれど、sおhはそのままのメディアがお似合いだし、作業の途中で乗車拒否をするのも得意だけれど、昔のことも今のこともねとつく飴の中に放り込むのはもっと得意なのだ。

 

果たされた火炎の序所性の裏側に

 

果たされた火炎の序所性の裏側に、木造の灯台へと続く夜があったとしても、停止する。呼ぶことをためらわれる汽水のゆるやかな冷たさに、言葉への畏怖を避けながら、分節化されて、映る可能性の燎原を垣間見ることもなくはない。落ちどころに困窮するのも特権の限りでもあるし、連続性への遠ざかりでもある。灰色のガラスを通してみるものが、すべて実在の証であったとしても、人は疑うばかりに都合のいい祈りを重ねることをやめないのだろう。残されるものは蓄積されたものとの緊張においてしかありえないような、奇妙な接続への夢を捨てきれないのかもしれない。

 

洗い流された言語実験装置のモノクロームに

 

洗い流された言語実験装置のモノクロームに、丸天井への畏敬は黒中の死角が提起されたとしても、提起するものの撞着は気づかれることはない。満ち足りて、考量に並べられた香魚の瞳には、加熱に陽動されたダランベールが映りこんでゆく。記号は失効説への余韻をつぶさに見失うこともあるというが、ともすると、歪曲した表象への懐疑を引き摺ることもなくはない。接近は耐え難く、切り取られた水路を直ちに収縮させながら、中心を滑落した焦点への未練を置き去りにもする。とまれ、いつしかの曇天は今も曇天のまま位置の隔たりを思惟することもない矢印が、いつまでうなだれているのだろう。

 

足下の渦巻きをたどって扉を抜けると

 

足下の渦巻きをたどって扉を抜けると、声は胴間の断裂に近づいたかと思いきや、地核の後ろ指を去ってもいる。目指すものなどありはしないと、坂道を転がり落ちて、その他への張り紙をポケットに仕舞いこんでいたのは悪い冗談にすぎないけれど、いつだってポケットは芳醇な矛盾でいっぱいだ。まあるい過度の明滅を過ぎて、掘り進められていたのは赤い画布への誓いでもあり、妙に拡大された緑式のようにも思う。いつの日か座ったことがあるような思いにとらわれるのは、大きすぎるペンキ絵のせいなのかもしれない。

 

要素への還元が色相へのFの記述だとしたならば

 

要素への還元が色相へのFの記述だとしたならば、たどられた階層は訪れへの望みを、そっと、曖昧にする。削り取られた油彩の、顔のない無表情からは、生成への伸ばされた手が白い。そうして、雨に流れようとする絹音の淡いが、ようやく、人の行方を占おうとするとき、矜持はあやうさへの変貌を噛み砕く。確かさは罪に滅ぼされた乱打を今でも忘れることはないが、送信されて、晦渋への見限りを繰り返すのも確かな罪なのかもしれない。それでも、Fへの後退を、いまだ、への投影図だとするならば、散らばるリュートへの憧れは凝縮された想念kへの償いかもしれない。

 

終焉の中の律動において

 

終焉の中の律動において、御者への誤謬を恐れることもなく、ひとりの数字は記憶されていく。入れ子の複雑さを紐解きながら、氷魚の瞳の輪郭線は途切れた傷を癒すのだ。キャンバスに伸ばされた明瞭な線からは、水の香りがゆるやかな歩行を噛みしめてもいる。ある日の少数派は岸辺のレストランへの批判でもあり、自らの覚書でもあった。レンガ色に染められて、粉塵は固着したまま立ち去られてもいたが、灰色の空はいまもセントリズムのかなたにくすぶってもいる。かつての知の考古学に寄せられて、街外れのメリーゴーランドは切れた燃料を物欲しそうに眺めてもいる。

4つの穴の5つを塞いで3つを数えてみる

 

4つの穴の5つを塞いで3つを数えてみる、その間際への難問が初期への処置だとしても、具体的な精査は5秒前でしかない。文書への忠誠は彩られた忘却へのまどろみにすでに近く、自らの仮称への流動性を抱え込まざるを得ない。したがって、これらの開け放たれた明確さにおいて、はじめに戻ってしまう論理的空回りは致し方ないにしても、日陰にはうなだれた途方が待ち構えてもいるのかもしれない。浄化は何のためにある言葉なのかもわからないままに、一人歩きの活性を操作することも雨に香るのだろうか。もし、そうだとするならば、大陸への夢はあるはずのない国境を封印された諧調への片道切符に過ぎない。

 

水口のぎこちなさを探って

 

水口のぎこちなさを探って、金曜への機能を考えてみても、氷島への窮鼠は詰屈の頽勢をためらうこともない。視覚は過ぎて、雌伏の矜持を待ちあぐねてもいたし、ほどこされて遮るものさえ希望の浄化へと変えてしまうこともできるのだ。そうして、沿革を行くリュートのバロックのように、踏みしめられながらの橋脚をなぞりながら、そのあたたかさを見つめていたのもあながち無謀というものでもなかった。ここを拠りどころと振り返ることもなくはなかったけれど、青い倉庫は二つの影をいつの間にかの空白に収縮させられていた事実に、おそるおそるの孤燈を教えてくれる必要もなかった。

 

落剥を二つ折りにして3角形を食べていたのは

 

落剥を二つ折りにして3角形を食べていたのは、氷の海を持ち上げようとしていていた、失園の詩人。ときには、倒れかけのオレンジジュースの表面をあとがきにする繊細さもなくはなかったが、起きたままのネオプランが躓きの置手紙だったことも忘れてはいない。すれ違い、涸れ池への急ぎを目印にして、昼寝を我慢していたのも連結器の慈愛というものだった。そのままあきらめれば位置へのモーニングビューはなかったかもしれないが、だからといって、付箋の貼られた地下室への厚塗りを君の手に届けさせたのも、早すぎた交差の遠隔操作という凡作かもしれなかった。

 

箱から出た夜光虫のプラスチックと

 

箱から出た夜光虫のプラスチックと、その伸ばされた手の先のマジャールからこぼれた断裂に、文字説は潤みの頽勢を入手してもいる。喫水は遠方への底の緑のささやきだったにしても、硬質の思想はときとして強靭な中庸性を嘆くこともあった。それらは、北欧の墓所であるし、インクへの凝縮でもあった。丸に囲まれたグリッサンドの扉としての知であるにしても、踏まれる砂利の気持ちもわからないでもない。冬季はそのままに涸れることのない混濁に満ちてもいたし、ねじまがった挿入句の躓きにさえ、人は天井の青さにいまさらながらの結節を夢見てもいるのだ。

 

開かれた嗟嘆のフォルムの群れと

 

開かれた嗟嘆のフォルムの群れと、呼び止められて、海区への折り目正しさも忘れたままにして、時限の装置をはにかんでゆく。後少しの昼下がりはA相に連なってもいたし、目指されて、膝にうずめられていたのはRの自乗でもなく、知らぬ間の半角定規だった。海淵はいつか引き摺られた舞台への驕りだったような気もするし、うつろな箒だったような気もする。それまでの空間が冷ややかに固まっていて、貫通した部屋には、マックス・エルンスト。そのくすみのコラージュが欲しくて、砂に枯れ木を刺していったのは黒いピエロだったような気もするし、クジラの包摂だったような気もするのだ。

 

プリコラージュへの失墜はちぎれた連関における涙であり

 

プリコラージュへの失墜はちぎれた連関における涙であり、名前を付け忘れた箱性でもあった。気にするまでもなく、嬌声はカタカナへのリコーダーをとどめていたし、引き出しの底だった。にもかかわらず、急いでいたのは撫で下ろされた一通の手紙かもしれない。ボイスレコーダーに色塗られていたのも時への待機でもあったし、連続説への棒でもあった。あとわずかばかりのあとがきへの苦悩も痛いくらいに散逸していたし、それまでの交差性の欠けていたものも海へと帰ってゆくブレーキでもあり、追跡を免れることのできない皮相の幻かもしれなかった。

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