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奇矯なダンスはOへの償いであり

音言遊戯帖第83集

 

  

     Странный танец является компенсацией на O

 

 

 

❏ 2011.8.01-10.02 

❏ Три восьмидесятый том тетрадей для игры звука слова 

 

 

Девяностый том тетрадей для игры звука слова Звук,звукозапись,стихи,Фото.и дизайн:.ОНЮГИ. Программное оборудавание, Cakewalk/MUSIC CREATER 5. ZOOM Handy Recorder H1.Shure SM57 микрофон,Cardioid DM-876S микрофон и Yamaha MV802 Хроматической насторойка,MT-1200,TU-12H. Зписался на звукстудии ругнои работы ОНЮГИКАН. 01 Августя~02 Октября 2011.   URL:http://onyuugi.wix.com/onyuugi/ Блог :言遊戯帖:http://kotoyuugi.seesaa.net/ 音遊戯帖:http://onyugiguitar.seesaa.net/ Email:onyuugi@infoseek.jpMusic,recording,poem,photo and sleeve design by onyugi. Recording application software Cakewalk/MUSIC CREATER 5. ZOOM Handy Recorder H1.Shure SM57 microphone,Cardioid DM-876S microphone, and Yamaha MV802. MT-1200 Multi temperament tuner,Chromatic tuner TU-12H, Recorded in The Handmade Studio ON YUGIKAN. 01 August~02 October 2011.   URL:http://onyuugi.wix.com/onyuugi/ Blog :言遊戯帖:http://kotoyuugi.seesaa.net/ 音遊戯帖:http://onyugiguitar.seesaa.net/Email:onyuugi@infoseek.jp

使用楽器・音具 Музыкальный инструмент/Звонкои инструмент

 

 

ギター6・Electric acoustic guiter(ovationNS781-5 86)

ブルースハープA

三弦

錦石

 

YouTube

 

4:05 5:45 6:11 6:41 4:07 5:48 5:03 4:37 4:22 5:07 7:44 6:57

 

Общее время звучания Total time 66:26

各曲には長い沈黙が収録されています。ご注意ください。

奇矯なダンスはOへの償いであり

 

奇矯なダンスはOへの償いであり、そのゆるぎない危うさへの鍵となる接近でもあった。持ち込まれた犠牲への韜晦に罪はなく、共にあきらめかけていた証票への黙礼の住処でもあり、引き寄せられる蜃気楼でもあった。天蓋を夢見たのもつかの間の不可解さでしかないが、krという先駆性への憧れは戸惑いを探しあぐねていた虫のようでもあった。あまいピクルスはその氷魚を物語に変えて、在ることの意味を教えとして、窓からの雨を眺めていたのも囲われた眠りへの疲労でもあった。裏側はどちらなのかもわからずに目の前の冷気の刻みを気にしていたのも、なんだかリンゴの組成だったような気もする。

 

捨石はあざやかにきらめいて

 

捨石はあざやかにきらめいて、研ぎ澄まされた一般性への重たさを教えてくれる。とどまるところを失った軽はずみな詩行の空々しさに、失うものはないが、輻輳化は未知への共同の作業を呼びかけて、魚の夢を儚んでもいた。その与えられた懐疑性への執着はよどみなく過ぎて、一つの電光花火と、ポストコロニアムの散乱を導いてもいる。転がり続けることの痛みを承知しながら、それでも転がることの宿痾を嘆く必要もない。残余ははばかりなく、止揚に向けての対立を含みこみながら、再びのあざやかな捨石を、一般性へと向かう強靭性は教えてくれる。

 

夜明けのアッサンブラージュを待ちきれなくて

 

夜明けのアッサンブラージュを待ちきれなくて、いくばかりかの壊走に満ちた残響を繰り返していたのも擬態の一つかもしれなかった。掣肘された円環の端をなぞりながら、森の波うち際を覗き込むのも悪くはないと自分をごまかして、ポケットにピアノを詰め込んでいたのは溶解する疑問符。たった2行への未練が壊れた新聞紙の油の不眠であったとしても、のの隙間だらけにはにべもない。いまさらのフーガはいまさらに懐かしく、それでも、断裂層というメルツ絵画は削除のキーボードを叩き続けてもいるのだし、水にさらされた視線を追うことだって無理からぬことかもしれないのだ。

 

銃口はセピアに遮られて

 

銃口はセピアに遮られて、残りの文書の轍をたずね歩く。おそらくは、地上の回答は砂塵に夜明けを待ちきれなくて、おそるおそるの階梯を銀幕の向こうにさがすのだろう。青い日には鉄の誤謬を散乱させて、これまでの問いを見つめなおす。変換は簡単であるにしても、求められて、Lの破壊の中に住むことの苦しさは自ら背負うべきものでもないはずだ。痛みをへし折られてなお、そばにたたずむことの日常はいつも瓦解と隣り合わせでもあるが、「なぜ」を失うことはすべてを失うことでもあることを、命の装着は教えてもくれる。だから、何ができるのかはさらに友への重たい課題なのだ。

 

音道への点呼はずらされた位相への懐疑の距離でもあり

 

音道への点呼はずらされた位相への懐疑の距離でもあり、あたためられた悲愴の安らぎでもあった。差し上げられて、虚空がそこにあることにも気づかず、ひきずられたシガレットケースの確執にあらためての日常を発見する。たやすいことではないと砂に片足を下ろすのは疲れた帽子でしかないけれど、パステルのカーキは人の顔を浮かばせることもできるのだ。呼びかけられた、再びの点呼に振り向くこともなく、国境を渡るのは途中までのコンパスでしかないが、そこからの冒頭への中心線はいつからの理想につながっているのだろう。帰る無蓋車に頬すり寄せていたのは、そこにうずくまる天秤の足音のためだろうか。

 

歩徒が違うというだけの饒舌から

 

歩徒が違うというだけの饒舌から、どこまでの遊びを△にしても、たまたまめくられた物語の歌はノンビブラートに揺れている。繰り返されてもいたし、再びの暗闇に水を誘うねぐらの鳥も消えてひさしい。裁かれようとして裁くことの限定性に気がつくことのなかったフランスの詩人でさえ、転げた鉛筆の錆からの贈り物に違いなかった。どうしてサンドイッチマンを許すことができても、古びた資本を許すことができなかったのか。そう、それはいつから求められた改札口なのか。それ自体の歴史性に目を瞑ることはたやすいが、それを見つけ出すのはおそろしくたいへんなのだ。アンチピリンはどんな絵がお好みか。

 

覚えかけのクリシェが思い出せなくて

 

覚えかけのクリシェが思い出せなくて、埋め込まれたハンガーの折れ曲がった針金をたどってイチゴを落としてみる。その少しずつ暗闇に照らされてゆく緩慢さに誘引されながら、日常の自壊を講じていたのはダルムシュタット。たまのクラリネットも悪くはないと、数字の間に線を引いて分数にしてしまったのは夢の誤解かもしれないが、憔悴はいまでも駅前のローターリーを回り続けてもいる。あの日の唐突の閉塞に子供たちは何を思ったのだろう。あかるい階段の広がりの中で、生真面目なモノローグを探すのもいいけれど、ときには会議への懐疑も必要だろう。

 

夜のプレートテクトニクスを引きはがして

 

夜のプレートテクトニクスを引きはがして、機能の緩衝帯に連れて行く、その小ささに気付くこともなくはなかった。日々の葛藤は、おそらくははかない矜持の裏返しかもしれず、だからこその砂上の連鎖に笑止を求めるのかもしれない。点在した帽子のかけらを拾い集めていた青い顔のピエロ、その手の届くことのない核への夢想も過ぎて、それでも核もまた、冷却された1000年の一つでしかないし、震えるふたつぶの無重力でしかない。それらのタイポグラフィアの煙突からは、砕けた蜃気楼と、トレースされすぎた栞とがいつかの覚え書きとして、はかない「おそらく」へとのみ込まれてゆくのかもしれない。

 

第一貨物がガラスに刷り込まれていたものだから

 

第一貨物がガラスに刷り込まれていたものだから、オレンジ色の保存則の地下への入り口には硬質の拙速説。もう一度という虫眼鏡を代えることはかなわないかもしれないが、ゆるやかに人気はなくて、タイルの信号はサンプル質の枯渇に騒ぐこともないのだ。;はいつの間にかの焦壁を黒に変えて、凍りついたままの後ずさりを握り締めてもいた。尖塔があるというのに未来は推し量ることができないままに、つぶさにあきらかにされながら氷面となって流浪を繰り返してもいたし、街角のギャラリーは戸惑いの訪れに戸惑いながら、畏怖に満ちた誘惑を静かに特化させてもいたのかも知れない。

 

書きかけの疾駆域は昧爽の濡れかけたパダルコジーニでもある

 

書きかけの疾駆域は昧爽の濡れかけたパダルコジーニでもある。引き摺られかけて、飛び入りしたのは「電」を読む人だった。そのうちの半鐘のつぶやきは屋根のない空間でもあったし、行き止まりの白でもあった。視覚は並べられて、装う仮の住まいに虚でもなく、土の塊でもないものでもなく、支えられ続けることの熟知を知らない雨でもあった。そそがれてはいない、けっして、浮かぶことのない氷のような否文字に連なって、信号機の明るさに疑問符を授けたのも街角の通信機。したがって、持ち去られても仕方ないとあきらめかけのぶどう酒に注がれていたのは甘い憑きの心電図。

 

遠ざかりながら前衛として刺さる棘のように

 

遠ざかりながら前衛として刺さる棘のように、動機さえ後ろ盾にされたその時代の不可解さと隣り合わせの鱗の目から、楚の数。打ち付けられて、フレットの距離を疑いながら、そのことすらも、実はその他の観測でしかなく、fりはひっそりと排除されている。したがっての、なめまわされた模糊の表層へと帰ってゆく舗装道路の金魚鉢。もとより、見上げられてこちらに塗り固められているのは、散らかされた隙間に過ぎないかもしれないが、塔を移す水面の揺らぎにさえ、失われた境界を差質の肥大として知覚することもできよう。ならば、手綱をみかぎられた再構築は世紀とはそもそも無縁のお昼寝なのだろう。

 

干し葡萄の降る日のコッペパンに

 

干し葡萄の降る日のコッペパンに、ゲオルグ・カイザーを見たくても、町の魚屋さんには「注意事項」がいっぱいだ。箱から覗いているのは数え切れないただの自分でしかないけれど、もう一度箱に入ってゆく度量もなくて、ペンキ絵を落とし続けていたのが妙に懐かしくもあるし、筵もブリキでいっぱいだ。思い切りガラスをひっぱたいて、弾き返されたことの驚きに路地裏のメモ帳には虫眼鏡が描いてある。いつから世紀が変わったのかも知らないうちにコルビジェの窓からはその日のための光がそそいでいる。それでも、Nの自乗を欠いた道行きからは、チェンバロの舞曲が輝いている。

 

 

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