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5時か78時かわからなくなった漂砕の

音言遊戯帖第101集

   5 или 78 часов или потеряли или забыли о разрушении  

 

❏ 2016.12.24-2017.1.28  

❏ Сто первый том тетрадей для игры звука слова  

 

 

Девяностый том тетрадей для игры звука слова Звук,звукозапись,стихи,Фото.и дизайн:.ОНЮГИ. Программное оборудавание, Studio One. ZOOM Handy Recorder H1.MT-1200,TU-12H. Зписался на звукстудии ругнои работы ОНЮГИКАН. 24 Декабря 2016 ~1 Января 2017.    URL:http://onyuugi.wix.com/onyuugi/ Блог :言遊戯帖:http://kotoyuugi.seesaa.net/ 音遊戯帖:http://onyugiguitar.seesaa.net/ Email:onyuugi@infoseek.jpMusic,recording,poem,photo and sleeve design by onyugi.  Recording application software Studio One. ZOOM Handy Recorder H1. MT-1200 Multi temperament tuner,Chromatic tuner TU-12H, Recorded in The Handmade Studio ON YUGIKAN. 24 December 2016 ~ 28 January 2017.   URL:http://onyuugi.wix.com/onyuugi/ Blog :言遊戯帖:http://kotoyuugi.seesaa.net/ 音遊戯帖:http://onyugiguitar.seesaa.net/Email:onyuugi@infoseek.jp

使用楽器・音具 Музыкальный инструмент/Звонкои инструмент

 

 

ギター5・Electric classic guitar(APX-7CN)

ギター10・Acoustic guitar(TAKAMINE・TSA800)

ドライバー(緑)

YouTube

 

2:36 1:22  2:48  2:12  1:58  1:25  3:44  1:11  0:56  1:50  2:27  4:00

 

Общее время звучания Total time 27:44


各曲には長い沈黙が収録されています。ご注意ください。

 

 

5時か78時かわからなくなった漂砕の

5時か78時かわからなくなった漂砕の、青白い城壁の微粉を嗅いで、蜘蛛の巣に近づきかける匍匐の切なささえ上書きされている罠の589性。秩序はあたりまえの前提とされながら、外延の自己反省性が、やはり、遂行矛盾をたどることになるにしても、掻き消えて、雨の窓をなぞる箒星も実は「呼ぶに値しない」ファンタスマゴリーなのかもしれない。それでも、ひっくり返った電信柱が大地の象形を支えているとでもいうように、不実は対立の装填をないがしろにしたまま、初発の願いを煙にまいてもいる。終わったそのときからの同じことの懐かしみを転がしながら見上げているのは光の尖塔。

試みられた○「め」の脱出は

試みられた○「め」の脱出は、金魚の円周率をそのまま固定させて、傾向を限りなく循環させていく。開いたつもりのつもりは壊走を自前の半顔の中心を少しずれた地点でめりこんで行きつつあるが、ブルドーザーの肥やしにしてもはじまらない。青ばかりを集めて悦にいって、霧の鉄路を思い出して「出発進行」になりきってしまうのも気が引けるに違いないが、アイロニカルな敗北はまだ開始されてはいない。とするならば、東の古典派を説明するまだるっこしさは承知しつつも、自己言及のパラドックスは尻尾を丸めてほえかけている。「だから質問してください」は濡れながら凍っているはずだ。

薄明のマンホールの頓挫の連鎖

薄明のマンホールの頓挫の連鎖、はいつかは驟雨の誤認された終着地点を戻りかけている。ならば、捨てられたままの取り紛れた破砕の語りえなさを語り続ける位相のズレに、ひとつの可能性があるのだとしても、解釈は稚拙の属性を許すことはない。開かれて、それでも閉じて与えられる禁じられた音律と、箱性に魅入られた韜晦をなだめてもいる。手段は限りなく見えても、分類のコードを水路としてとどまることしかできなくて、拡張されたシミをすら走査の対象として類推されてもいるのだから、虚構の生息地にさえ、抉り出された内面は代謝の滞留を待つしかない。

すべてはつどの疲労の三角誤域

すべてはつどの疲労の三角誤域、眠りの意識の前の行為は雑把な組織性への寄り道切符。シニシズムは転げた妄想自体の12.8世紀的位置づけを拒み続けているにせよ、所有論は冷たい市場を迎えてくれる。頽勢を良しとしながらの先へ急ぐ「声」のゆるやかな波紋は、その塔への誓いにもかかわらず、決められた時刻をしか狭窄することができないのはなぜなのか。中断は突然であるから、主体の蒙昧を切れ切れの要素として構成しかけてもいるが、ほとりの本は今も開かれ続けているのだろう。さりげなく、伏されて、砂の生物を脳裏に見上げようとしてどうしても届かないのは遺失の具体論かもしれない。

もつれる脱出の帽子と

もつれる脱出の帽子と、だからこそ、鉛の鞄を切り裂いて、途方の暮れは認識論的のためにリストを削除する。対象の内側に入り込むことなく、という動詞を教えてくれた慙愧の印に、罪する。2課への@はつづれおりに、散乱する広義の中心をさらに中心化して、陥没寸前のアルミニウムの海に張り付いている。救済ははたして裏返しの発行コードをそのまま踏襲しつつ、コードの内側にやはり張り付いてもいる。おそらくは開くまでもなく、固まるほどでもない冷気の中で落とされている紙切れをそっとなぞって、そのままにしておく。

遠赤外のほとりをめぐって

遠赤外のほとりをめぐって、逆相のサイコロを考えてみる。ほんの少しの矜持のために、矜持を溜め続ける「ご記入」は枯れることもないのかもしれないが、虚でさえもある。窓は拭かれて記録の非中心をモデル化してみても、モデルの先にはほんの少しの矜持がうずくまっている。2部以上といわれて、誰にも告げられることのない、第3のフレット。仕事が趣味と偽って、開始されていたのは「オフ」された虹の演奏会。それでも、いつかのこの実の終着点はサバルタンへの語りの不可能性を追求し続けているのかもしれないし、句読点を待ち続けているのかもしれない。

成熟した瑕疵を速達にして

成熟した瑕疵を速達にして、焦点への回収へと向かう船の沈没をコップで掻い出しているうちに、それでも命を全うする人もいるのかもしれない。忍従を耐え難きしのげるうつつに替えて、手渡された伝播者への誓いを相互主観的に排除し続けることは可能だろうか。棒引きされた忘却を繰り返される過労の死と、テーマパークへの従属をモダンに彩らせながら、とりとめのなささえ泥にまみれた美学に作り変えながら、新しい土地をいまだにまさぐっている。蒔かれた所思をあざ笑いかけて、手を組み続ける彫塑をさらに削り込んで、灰に帰すまでの時刻を固定しなければならない。
 

無理性の頭部を茶色い儀礼に見立てて

無理性の頭部を茶色い儀礼に見立てて、名付けられていたのは楽堂の丸天井からの冷気。喚起される符牒は転移する軌跡で足りるが、調べ緒は遠方からの統語を至誠の儀式への参照点へと移り変わる。Bはアンダーバーの困難さをいつまでの単数形を、逸脱の昏睡に陥れる。アスファルトの砂利函数を占うのは困難でもあり、その散乱の行方を思索するのは気楽なのかもしれない。波形解析に基づいた詩蹟の解読は、おそらくの浅学のお呼びではないにしても、残された存在理由のための営みは矮小化されたままのkdを、限定された永遠という自己限定性を棚に上げてのメランコリーにはふさわしいかもしれない。

蝋雨を知りたくて蛍光灯を半分入っていく

蝋雨を知りたくて蛍光灯を半分入っていく、連鎖する律音を力の抜けた魂にクレオスしてみる。開始は分析を待たずにリトグラフ化されて、この日の時間に間に合うはずとたかを括っていたのは№北T-138の危険地帯。落としどころを間違えてはいけないと、陽気な人類学者の言うとおり、左手にはピンクのコップが送電されている。入力方式は分類可能の対立事項を言語内言語として理解してはいても、regiは耳をそばだてて遠い水音を聴くのをためらっていたし、予期せぬ断層の「ふい」に何かを透明してもいる。ロートレックは静かな破産を懐疑する。

U地の素の滴には隣接紀が満ちていて

U地の素の滴には隣接紀が満ちていて、とりとめのない理屈は間尺に合わないとWの唇を噛んでいる。というわけで、三角地域とは何かをしめやかに階段しているのは入手されたばかりの認識論的ゴム鞠にさえぎられている。3mのつもりが6mだったのに、8月の溶接は閉じたまま遺失の回答を割ったままにしている。涙は何のためなのかはわからないが、洗面器にあふれ出しているのは事実だし、その半年の空白は溶け出した番外地だったのかもしれない。それでも、小さな箱には貧しい心への無力が満ちてもいたし、冷えすぎた坂道にはメビウスの歪曲が映しこまれている。

投棄への非在というわたしの不在に

投棄への非在というわたしの不在に、あまりにも乖離は日常に過ぎて、その推し量られるべき周縁を意図するものもない。有境はどこまでの域性を明らかにするものなのか、変動を経ての自体の顕現を求めても、詐称なのかもしれない。俯瞰されながら染みを歩くキリルのように一度も開かれることのなかった時刻の奇想としてのフレスコ画。身に覚えのない仲間との語らいを糧にしながら、その先のマンネリズムへの執着を失うことのない視座と、仮想は過ぎて、戻ることさえ許されることのない挿入句を裂き続ける。それらの廃失を疑えば、それらの曲際の反映を理由として意味し続ける。

覆されかけの不均衡を呪詛の鎖につないで

覆されかけの不均衡を呪詛の鎖につないで、過ぎかけてもいた上部構造への身点をはざかいする。コントロールされて、新しい調べへの静黎をやはり紡ぎだすのも地を行く全域の前線なのだろうか。査証を与えられて、それでも、五区にとどまろうとする理性への懐疑を疑うわけでもないが、L字の屈折をそのまま屈折に欠けさせてしまっていたのは開かれた二重の下降曲線。まみれた水手の透明を後ろ手にして、いまだにたどり着く事の非性を捏造し続けてみる。終着は自分と諦めてさえ、円卓の問いかけを求め続けているのも矛盾の論理というものかもしれないが、水晶玉は想定された背理を褪めている。

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