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グラスの外と中の間を回る踊りを眺めながら

音言遊戯帖第89集

 

  

     Смотря на танец, который оборачивается между в кроме стекла

 

❏ 2013.1.3-2013.5.5

❏ Девять восьмидесятый том тетрадей для игры звука слова

 

 

Звук,звукозапись,стихи,Фото.и дизайн:ОНЮГИ. Программное оборудавание, Cakewalk/MUSIC CREATER 5. ZOOM Handy Recorder H1.Shure SM57 микрофон,Cardioid DM-876S микрофон и Yamaha MV802 Хроматической насторойка,MT-1200,TU-12H. Зписался на звукстудии ругнои работы ОНЮГИКАН.
3 Января 2013~5 Мая 2013.
URL:http://onyuugi.wix.com/onyuugi/ Блог :言遊戯帖:http://kotoyuugi.seesaa.net/ 音遊戯帖:http://onyugiguitar.seesaa.net/ Email:onyuugi@infoseek.jp
Music,recording,poem,photo and sleeve design by onyugi. Recording application software Cakewalk/MUSIC CREATER 5. ZOOM Handy Recorder H1.Shure SM57 microphone,Cardioid DM-876S microphone, and Yamaha MV802. MT-1200 Multi temperament tuner,Chromatic tuner TU-12H, Recorded in The Handmade Studio ON YUGIKAN.
3 January 2013~5 May 2013.
URL:http://onyuugi.wix.com/onyuugi/ Blog :言遊戯帖:http://kotoyuugi.seesaa.net/ 音遊戯帖:http://onyugiguitar.seesaa.net/ Email:onyuugi@infoseek.jp

 

 

使用楽器・音具 Музыкальный инструмент/Звонкои инструмент

 

ギター6・Electric acoustic guiter(ovationNS781-5 86)
ギター3・Electric acoustic guitar(Aria・AMB-3)
錦石

YouTube

 

3:52 5:21  7:52  6:31  6:51  4:49  3:24  4:57  5:15  4:43  5:25  4:57 

 

Общее время звучания Total time 63:49

各曲には長い沈黙が収録されています。ご注意ください。

グラスの外と中の間を回る踊りを眺めながら

 

グラスの外と中の間を回る踊りを眺めながら、がんじがらめの思想を懐かしんでいたのは古びたカモメ鳥。その瞳の奥に少しずつの電球の振幅が新鮮でもあり、赤い海を嘆いていても摂理は従順な「まま」を繰り返す。放棄の先をなぞりかけて、跳び箱に座り込んでしまったのはなぜだったろう。揺り戻されそうなセルロイドのゆらぎの中にも、おそらくは、フルートの鍵盤が散りばめられていて、寸断の香りをいとおしんでもいる。のは、あまりにも穏やかに曲がりくねった「この人」の長すぎた眠りだったのかもしれない。電車箱は上から眺めるべきものと諭されて、それでも裏側の指紋を気にしていたのは黒い寒暖計。

 

救済を検索することの虚しさと

 

救済を検索することの虚しさと、棒ガラスの非地上は後ろからのか細い視線を受け入れている。湧出する活性炭素の、その3をなぞる手ごたえの、圧縮された人への出口はとうに開け放たれたまま、欠落に塗り固められた地名のうそ臭さを知ってもいる。そのうえで、地図は流れ出すほうき星の語末にぶら下がりかけながら、こわばった頬の道化師を演じ続けている。とするならば、分割された心の書式を求めるのは電気式湖の濁りにも似た錯乱でもあり、地相でもある。そうして、結局というため息とともに、やはり、33.5秒の階段を下りていくしかないのだろう。

 

散列と掉尾がこんがらがって

 

散列と掉尾がこんがらがって、道をほどきかけていたヒコポンデリアへの舞踊は20世紀のサロメ。歩みだそうとする重たるげな失語への感傷もなく、うつつの緻密な韻律を捏造していたのはやはり空欄。覚書は東の地球儀にかしこまわれて、地軸をむき出しにされた白い花瓶への因習をあえいでいる。散逸する疑念は異型の、あとわずかばかりのダイアローグを封印させようとしてもいたし、だからこその、携帯ボタンへの記されて、覚悟を知る。きっと、本物と呼ばれる怪物のわかりにくさは、実は矢印語の相関図でもあり、「何を言いたいのか」を問いただされたときの桎梏でもあるのだろう。

 

語れないものを語ることの負のスパイラル

 

語れないものを語ることの負のスパイラル、その反転の導きへの韓愈性を隷属させながら、降る。瞬きの瞬間だけを停止する雨のように、研ぎ澄まされた拡張質の有機的複合性の不均等性に諭された幼子のように、降る。瞬きの瞬間だけを停止する錯誤のように、降りつづける雨。禁断の仕儀は指先の浅い眠りにとろりと流されて、打ちのめされた自己への韜晦を準備する。見開かれた眼差しの彷徨を見定めて、それでも、瞬間だけを降る試走への、不実はないがしろにされて、後追い的句点の終止形をまさぐり続ける、降る。覚えたばかりの苦味は積まれた理不尽よりも、その言語論の聖域をも塗り固めている、雨。

 

後ろを向いていない目籠のない辞書の

 

後ろを向いていない目籠のない辞書の、納得は踵を返された境界線を見つけ出すことの「不可視性」などといった気取りは似合わないが、登りかけていつもおとなしく眠り込んでいたのもその人の流儀なのかもしれなかった。ときとしての、円環さえ、会話を拒まれたエンドレスの自転車のように、たったそれだけの、手のひらの握りをほしがらずにはいられなかったのは小鳥の笑いぐさかもしれない。だというのに、拾われてきた小さな夢、その「ボロボロ」に追い越されて、坂道の映画館で古い瞬きを、塞がない、金魚鉢のいない餌を飼いならすことをおしえてくれたのは「まま」の人。

 

ステレオタイプの縄文のクレジットカード

 

ステレオタイプの縄文のクレジットカード、「風下さいな」は砕かれた止水に覆われてもいて、まだ「大安」などはなかったのです。したがって、連鎖する思想も失われることもなく、文字も裏返った白さの意味をまとうこともなかった。だからこその、野の広さも気づかれることの焦りもなく、デジタルの信用も位置づけられた昨日の電車に曳きずられたままになっていなかったし、残りの図像の意味を探る必要もきっとなかったのだろう。そして、これからに澄みはじめる表意文字への憧れをすでに舵取りながら、FR18366への腐心を疑いはじめていたのかもしれない。

 

落下しながら落下する落下は

 

落下しながら落下する落下は、胸を詰まらされた無力への抗いであったが、その「キメ」の現実性を教えられたのはつい昨日の膨張缶。それでも自己中心言及性のへの連鎖を頼りの定型図は、境界を曖昧にしながら、針の痛みを知ってしまいながら、19世紀の古典派へのノンヴィブラートにこだわり続けてもいる。あまりにも突然の瞳の相対性はいまさらながらの承諾を求めている。飛躍は言語への平行性を球形のおだやかな諮問と引きかえの、それでも、いつまでたっても改行されることのない落下を落下し続けながら、おそらくは、落下の罪を整え続けるのだろう。

 

戻れ得ないことへの不安を逆手に仕舞いこんで

 

戻れ得ないことへの不安を逆手に仕舞いこんで、素因への流動性は2部以上過ぎ去るのが望ましい。ただし、正規分布への紐解かれたメッセージへの届かない光には、非日常の入れ子の日常が、その視線を自らの空洞を照らし出してもいる。作業は開始されたばかりにもかかわらず、すでに終息感を伴っているのは傷のついた手帳とはいえ、雨の中を歩くことの驚くほどの困難を知らされたのは、やはり、肌を寄せ合う日常であることに「物象化」する。絽説はたかだか30年の刻みでしかないが、そこに中心する現在というアレグレットは、カタカナの「その他いっぱい」よりもおそらく鉛なのだろう。

 

仮の胎動は欲望の解釈をリスクへの後退に変えて

 

仮の胎動は欲望の解釈をリスクへの後退に変えて、[著]としての第3象限への囲い込みへと誘っている。振り下ろされた残照の調整に惑わされることの焦りには、すべを再生された酩酊が寝転がっていたのかもしれないし、海への羨望を近づきすぎた符点として待ちきれなかったのかもしれない。蓋然的な絶対性を秘めながらの、あの日の青い帰り道を5月の順不同に差し出していたのは「おくぁり便」と塗られていた冷凍車。曖昧さは頭脳図形の地と図に分配されて、相対的な濡れた綴れ折りを噛みしめることもなく、市場へと続く階段を数え続けながら、おそらくの背理をも数え続けていたのだろう。

 

白濁された不安を追いかけて

 

白濁された不安を追いかけて、帰属への永劫を摘出しにかかる、そんな冷却装置が代替されていたのは黒い線状のトルカナ文字。生起確率をホチキスでほぐしながら、構内の響きにときめいていたのはただれ模様の灰の隙間。俯瞰する思いがけない定律の拡散にうながされた事態への「語り」をあざやかに切り取って、震えるゴングの仮面の反射に分断された祈りを、そのままなぞり続けていたのは緑の鉄板だったようにも思う。吊るされて、はじめてその「他性」に気づかされていたのは突き当たりの安全地帯でもあったし、あまりにも細分化された負荷の行為への緊迫範域だったのかもしれない。

 

了解をCボックスに蓋を重ねて

 

了解をCボックスに蓋を重ねて、擬態への鏡石を持ち去られたU字溝のオブジェに飾り付けていた、そんな、一般性が許されるわけでもないが、磁層でもある。限りなさへの憧憬をメディアに書き込んだにしても、引き出された空耳の足音は振り返るたびの空白として実在を主張してばかりいる。とはいえ、共依存のどうにもならなさがもどかしいのは裏が表だからかもしれなくて、しかも、表をだれも理解できない剥製にすぎないのかもしれない。そのままに放置は放置を生きてゆくのだろうが、放置はやはり放されて置かれたままでもあって、Cボックスへの封印を解読する訳にもいかないのだ。

 

東への滅びを言葉で飾るのはたやすいかもしれないが

 

東への滅びを言葉で飾るのはたやすいかもしれないが、虫のいない寒さを懐手にするのは変換されたアルミニュウムの分岐点。こぼれかけた砂粒を缶切りが追いかけて、理解不能の一握を圧縮していたのは自らの帰属に疑いを持ち始めた機軸のどんでん返し。ならば、内偵の文化装置は可能態としての側面だけをアララトの頂に聖都としての意味立ちを付与させてもいる。飛躍は過ぎても、くくられるペンボールの4/58制御に落ち度はないものの、一度目は悲劇として、統合的な語源を司ることも自然というべきなのだろう。しかも代替的加熱は過小にも、その反映の自画像を透き通る存在として2.7%でしかないのだから。

 

 

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