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不完全は虚構を廃区として記述し

音言遊戯帖第97集

 

  

  несовершенство объяснило фикцию как устаревшие область 

 

❏ 2016.1.4-2016.1.22 

❏ Семь девяностый том тетрадей для игры звука слова 

 

 

Девяностый том тетрадей для игры звука слова Звук,звукозапись,стихи,Фото.и дизайн:.ОНЮГИ. Программное оборудавание, Cakewalk/MUSIC CREATER 5. ZOOM Handy Recorder H1.Shure SM57 микрофон,Cardioid DM-876S микрофон и Yamaha MV802 Хроматической насторойка,MT-1200,TU-12H. Зписался на звукстудии ругнои работы ОНЮГИКАН. 4~22 января 2016.   URL:http://onyuugi.wix.com/onyuugi/ Блог :言遊戯帖:http://kotoyuugi.seesaa.net/ 音遊戯帖:http://onyugiguitar.seesaa.net/ Email:onyuugi@infoseek.jpMusic,recording,poem,photo and sleeve design by onyugi. Recording application software Cakewalk/MUSIC CREATER 5. ZOOM Handy Recorder H1.Shure SM57 microphone,Cardioid DM-876S microphone, and Yamaha MV802. MT-1200 Multi temperament tuner,Chromatic tuner TU-12H, Recorded in The Handmade Studio ON YUGIKAN. 4~22 January 2016.  URL:http://onyuugi.wix.com/onyuugi/ Blog :言遊戯帖:http://kotoyuugi.seesaa.net/ 音遊戯帖:http://onyugiguitar.seesaa.net/Email:onyuugi@infoseek.jp

使用楽器・音具 Музыкальный инструмент/Звонкои инструмент

 

 

ギター5・Electric classic guitar(APX-7CN)

石(岩井海岸)4

YouTube

 

0:48  3:16  2:17  2:13  3:19  4:00  3:12  0:57  3:57  4:03  3:54  1:13

 

Общее время звучания Total time 33:12


各曲には長い沈黙が収録されています。ご注意ください。

 

 

不完全は虚構を廃区として記述し

 

不完全は虚構を廃区として記述し、棄性への布置をほどこしながらの寸断を模している。その確制の沼の波紋をなぞることの袋小路は妖精の沈みでもあり、パターナリズムへの資性でもある。ですら、飴色の重櫓地よりも硬質に移ろいながら、次への自我の放出を準備してもいる。意志はすでに起こされた行為の後追いでしかないにしても、それを自覚するにはあまりにも傷は遠いのだろう。そうではあっても、ギクシャクとしてぎりぎりまでの彫琢を懐疑にしてしまっているのは、変容を余儀なくされた数値への償いでもあり、自らの配置なのであるから、パストレルへの導入部でもある。

 

早すぎたp度リックへの屋根裏部屋のソナタと

 

早すぎたp度リックへの屋根裏部屋のソナタと、いつまでと聞かれて窮していた饒舌を規模の水域に描きながら、流動化を叙する。したがって、具体のコンドリアム様式をあの日の電波に乗せて、花売り娘へと転化した希望のアンテナを見上げている。いつまでもそこにいることへの後ろめたさはふがいないに違いないが、知ってしまったレディメイドを忘れることもできないだろう。とはいえ、記譜という孤独な書記性は該箔の冷軸構造を思い出すことすらなくて、コンクリートの廟に野積になってさえいるのだから、偏系ともいえなくもない、とつぶやいていたのはポストを気取る夕焼けの空想家。

 

寡失への10.8における鎚と誤られて

 

寡失への10.8における鎚と誤られて、午睡はドラム缶の音にうながされた無理強いの定格容量だったにしても、磯の 不燃性の確認はコンセプチュアル・アートとしてのモダニズムへの飴玉でもある。それでもシバノールを謎として、時計の針を凍らせてしまったのはマガダンの 教師かもしれない。添付されて、なお、地球を去るほどの三相性も消えてしまっていたにしても、やはり、午後のドラム缶は踏み切り近くの文房具屋さんの電球 にくくりつけられたままだったし、核種の心電図は渡ろうとした歩道橋の中途半端で倒れたまま定期入れを無くしてしまっている。

 

鉄の心臓を重層化していったにしても

 

鉄の心臓を重層化していったにしても、歩きにくいのは声の文化の位相を知りえない者への処置であったにしても、祝日 の不眠は現在進行形であり、恣意の窓への変圧を規定してもいる。地球の下にあるメビウスの文字を積み木の道具にして、それでも、未来への漂流が許されない とするならば、質問状は不羈である。それでも搬出された片道切符への片方の顔が自分では見えないのであるならば、振り返りながらの老廃への慈しみを置き去 りにするのも一考であると、そ知らぬ海斗への集計地点を壁に沿いながら消しゴムで消し続けていたのは、不慮の丘の船。

 

導入部の静麗な廃立を記憶して

導入部の静麗な廃立を記憶して、力動の書かれた仮構の複合観念を緊迫させていたのは口誦の舞踏家。とはいうものの、過ぎたままの雨上がりを片手に引き摺りながら、生態の内部への配置を踏み切りしていたのは、今では残された唯一の構造的叙事詩なのかもしれない。くぐりぬけることはいとわないにしても、遠ざかってしまった隘路への執着を身に寄せてみるのも木の葉の心性を無駄にすることもないのだろう。拡張された自己言及を熟知したつもりで自分の鏡を置き去りにしてしまったのは、やはり、急ぎすぎた露頭への思い込みというべきなのかもしれなかった。
 

はかないものへの状況依存的認識を逆さに取り付けて

 

はかないものへの状況依存的認識を逆さに取り付けて、それでも物足りなさを45度に傾けていた両足の人。暗闇はお手 の物と知りつつも複眼の挙動は平衡の「バラバラ」さを重たい沈黙に変えていた。さきほどまでの雨だって、足音を聞けば判別できなくはないが、右に割れかけ た矜持をもてあそんでいても仕方がないのだろう。なぎ倒されて、湿度の穴の開いた丸太を抱えていくのは、誰に聞かなくてもわかるものだし、わからないもの でも丸太は川に浮かんでいることを疑えない。巨大な土くれをオブジェと呼んで満ち足りているのもおそらくは状況依存的錯視に違いない。

 

遅れてきた未来派を懐手にして

 

遅れてきた未来派を懐手にして、生暖かい青い日の統辞論をその日の建設×kへの廃路にする。過剰は求められた違和感 でもあり、重ねあわされた印画紙の息の隙間で汀でも嘆いている。箱だから固形の不純な目録などと誰がほのめかしたかはわからないが、しびれる喉の痛みは思 い通りにいかない路面電車のレンガ磁気のようだ。さりとて、静かに貝を集めてやはり箱してみても、流木ばかりが「素敵な」形に折れ曲がってばかりいるのだ から、途切れがちにあきらかになる明晰的判明性を凝視し続ける枯れ水の波紋を、やはり、追いかける波紋は箱している禁じ手の箱している。

 

水に印刷された木版の栞を

 

水に印刷された木版の栞を、無記名性に過去を忘れ去るのは時代の要請された唆であり、レトリックでもある。幾何学は カテゴライズされた心臓部でもあったし、アッシリアの船乗りの四層でもあった。kLを音に作り変える苦しみは装着された接続への見限られた促進であり、昨 日の履歴さえも意味のない表層の日常でもある。そうしていながら、言語は薄い櫓のステンレスの揺らぎを嗅ぎわけて、そのおそらくは冷気を忍んでもいるのだ ろう。箱性は生きた男の夢の空間でもあったし、宙吊りにされた球形の一歩手前を行く、そうなのだろう、6日目の幼い散歩かもしれない。

 

刻まれた秤星の対蹠性を辞項の内省になぞらえて

 

刻まれた秤星の対蹠性を辞項の内省になぞらえて、軌道する内包的失墜を鏡に映された抽象的物質に変える。それらが意 図された排出の主義者であるにしても、小高い池への平衡は移動の収支を繰り返してもいるのだから、入手されたものは素性のガラスの分解を誤認してもいたの だ。鞄はしままわれて猫座と一緒に博物学の治水に、まして過ぎなくもないいが、こちらへの案内図は理解を刺している。不透明を理由に邪心を裸にするにして も、生き残るホメロスの声を書き込むのは筋違いというものなのだろう。したがって、SEA積みの当事者説は小奇麗なジャーゴンとして波間にとろけている。

 

じるりるの埋葬への白旗は燃えているし

 

じるりるの埋葬への白旗は燃えているし、名を伏せられて微笑んでいるのは、それでも、失われることのない矜持なのか もしれない。通り過ぎた影はひとつの画面の中で、二重の時代を映しこみながら、朝のダンスを惜しげもなく明らかにしている。点された飛躍へのその時点での 約束を、交錯する遮蔽への壁偏へと結びながら、なおのこと、訓詁学への拒否を自らの戒めとして定めているのは、ギリシャの兵士だったような気もする。敷か れたままのとりとめのない挿入句への、戸惑う装置への道案内を買って出た、木に吊るされていたのは、午睡を盗まれた円形質の、そのキネティック・アートへ の図像学。

 

コップ重ねのリンドルルーリさえ

 

コップ重ねのリンドルルーリさえ、諦めきれずに作為の象徴を梨耕式に惑わされていたには訳もなかった。昼間のサイレ ンはあまりにも感光しすぎて、口承神話としては成り立ちにくかったのかもしれないが、視覚を磨素にされた5部以上の総合性はハサミだ。だから、黄緑色の温 泉卵を船底の3日間は水を飲めない苦しみでもあり、予想された分析性への懐疑にも満ちることはないのだろう。再度の近代を埋葬に付して、2000年への思 いを馳せていたのは中世の鉛筆削り。それでさえ、暦などなかったのだし、日付を知る必要も生きる必要もなかったのだから、森の迷路は息苦しさを殺してい る。

 

 

カルチニウムへの羨望を影絵の帯にして

 

カルチニウムへの羨望を影絵の帯にして、信じがたい言動への「到着」への警鐘としている。その、詰まりの電話番号を 物分りのよい半端な地図にして、さらに青い絵の具で刷いてゆく。×印は赤い屋根への夜中のデモンストレーションに過ぎないにしても、音詩への拘泥はその日 の辻褄に閉じている。Y字溝を扉を開けて無しは継承されていくものと、疑いもなく流されていくが、先端を行く筏の静けさは灰色のスクリーンに滞留したまま の、問われざる領域への共同の呼びかけをRFしている。とするならば、テンポされたルバートはガラスの工事現場でしっかりとヘルメットを割っている。

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