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憧れは懐疑録への鏡に移しかえられた水錆に触れて  音言遊戯帖第88集

 

  

     Тоска для касания воды ржавчины переехал был

     перестроен в зеркало, чтобы скептики апокалипсиса

 

❏ 2012.12.9-2013.1.3 

❏ Восемь восьмидесятый том тетрадей для игры звука слова 

 

 

Звук,звукозапись,стихи,Фото.и дизайн:.ОНЮГИ. Программное оборудавание, Cakewalk/MUSIC CREATER 5. ZOOM Handy Recorder H1.Shure SM57 микрофон,Cardioid DM-876S микрофон и Yamaha MV802 Хроматической насторойка,MT-1200,TU-12H. Зписался на звукстудии ругнои работы ОНЮГИКАН. 12 Декабря 2012~3 Января 2013. URL:http://onyuugi.wix.com/onyuugi/ Блог :言遊戯帖:http://kotoyuugi.seesaa.net/ 音遊戯帖:http://onyugiguitar.seesaa.net/ Email:onyuugi@infoseek.jpMusic,recording,poem,photo and sleeve design by onyugi. Recording application software Cakewalk/MUSIC CREATER 5. ZOOM Handy Recorder H1.Shure SM57 microphone,Cardioid DM-876S microphone, and Yamaha MV802. MT-1200 Multi temperament tuner,Chromatic tuner TU-12H, Recorded in The Handmade Studio ON YUGIKAN. 12 December 2012~3 January 2013. URL:http://onyuugi.wix.com/onyuugi/ Blog :言遊戯帖:http://kotoyuugi.seesaa.net/ 音遊戯帖:http://onyugiguitar.seesaa.net/Email:onyuugi@infoseek.jp 

 

使用楽器・音具 Музыкальный инструмент/Звонкои инструмент

 

ギター5・Electric classic guitar(APX-7CN)

 

錦石

YouTube

 

2:14 3:17 1:50 3:34 3:11 3:03 2:08 4:43 4:51 3:47 4:35 4:25 

 

Общее время звучания Total time 29:32

各曲には長い沈黙が収録されています。ご注意ください。

憧れは懐疑録への鏡に移しかえられた水錆に触れて

 

憧れは懐疑録への鏡に移しかえられた水錆に触れて、泥の回答への設置を流し込んでいる。常には、ついの自らの手を自らに差し出しながら、おそらくの眩暈の錯視に教えられてもいる。弾き返されて、それでも、底抜けの停留所への距離を知らぬ間に推し量りながら、「ふと」つながったままのかけがえのなさに気がついていたのは、夜の真ん中の支配性でもあったし、アン・モンシエールへの青い休符でもあった。27日はこの前の/に似ていると、ちりばめられた誕生の祝いをひとつ抜き出して、歯車の人に噛ませてしまったのは記憶のせいでもないが、「あ」色の置き所のなさを抱きしめていたのも実は自分でしかなかった。

 

眠れぬ朝に罪はなくて

 

眠れぬ朝に罪はなくて、名前の隠された保管庫の最適性への原理を出自とした3月の確執。わがままをわがままとして自覚のないままに通り過ぎてゆくのも、それはひとつの秩序への放任なのかもしれないが、1842は文時計に張り付いたままの備考にしか過ぎないのではないだろうか。ともすれば、詩節は論理の裏腹性への階段を上ることもできなくはないが、重たすぎる看板は外す余力さえ欠落させてもいる。しめやかに衰退してゆくものは仕方ないにしても、ゆるやかな時間はゆるぎない苦痛としてあることも忘れてはならないはずであるし、理路の整然に残されているのは離村を排除した論理性だけかもしれない。

 

雨粒の頭部を裂いてガラスの傷にしていく

 

雨粒の頭部を裂いてガラスの傷にしていく、そんな無謀が許されるのならば、砂漠の金魚はピアノの眠りに売られることはないだろう。さらには、砂時計の砂は上に落ちてゆくものと信じられていたにもかかわらず、パレートの最適は笊のすき間にへばりついたままでもあった。そうして棘だらけのぎこちなさは風の中で朗読を奏でるに等しく、ネジ式のエレベーターは「いろは」に括られたまま、同時に停止しているしかないのだろう。それでも、地下のギャラリーにはゴムの鶏がはり付いていて、重箱の隅を暖めてもいたし、手にあまるほどの絶対的数量予測を上回るメリケン粉を御影のオブジェに変えていたのだ。

 

思弁への衒学を葬り去って

 

思弁への衒学を葬り去って、フェルマータへの冬の散歩に逃げ込んでいたのは装置の市場の失敗。巨大なTを片道に連れ立って、散らばる主旋律を掃き清めていたのも壁伝いに瞳されていた自動のひらがな。遠くに行過ぎた挿入句hを未練がましく指折り数えて、kへの伝言をある日の疑問符に捧げていたのも再生のラテン文字。そうであるならば、掻き消されて、なにを知ることとするのかを問いかけたまま、硬直の体言止めをその日暮しのカラスのアジトに仕立て上げていたのは外線72の私淑の影でもあった。禁句はそれでも連なる文字の尾骨を砕きながら、さらなる思弁への衒学を模索している。

 

突き詰められた自分の姿を吐き出したくて

 

突き詰められた自分の姿を吐き出したくて、それでも不透明さに猜疑は予定されたままに調和してもいる。ならば、帆に吊るされた語のその揺れ先の次元を探しあぐねてみるのも一考かもしれない。突然の終息はどこからを突然とするのかをあいまいにさせたまま、だらかこその突然を明確にしているのかもしれない。意味の方程式は水にふさがれた回路の当事者でもあり、3に記された散逸性でもあるのだから、離反への虚栄を飾り立てる必要もないだろう。過ぎたとして、一緒に終わることへの壊走をも包摂して、そこに留まることの接近を飛び越えていたのは雨製のブリキ缶かもしれないではないか。

 

自らを精霊にかえすことができるのならば

 

自らを精霊にかえすことができるのならば、隠された意味への星印を見上げる必要もないのだろう。ただ、「あるだけ」という存在を他に冠して驕るのは蔑みと変わらないだろうし、自らを袋小路に貶めることにならないだろうか。意識せざる摂理への忠誠は、距離としての閉ざされた文書庫への設問に曝されて、日付を遡ることへのリフレインを教えてもくれる。だが、それが夢の実在への裏切りでもあることに思いを馳せるべきだろう。誤認は仕方ないにしても、上書きされた軌跡への後悔は一般性という箱ばかりの眩暈を取り繕うこともできずに「不明」を呼びかけ続けている。 

 

凍るシャッターの金きり

 

凍るシャッターの金きり、声と、緑色の老婆の叫びとのヘテロフォニックな「排除」への切なさは繰り返されるお手玉の軋みさえ穿っている。それは説明のできない流動性選好でもあり、恨みへの不動点定理ともいえるのかもしれず、解は一瞬の表情を収斂させて「すっと」地下にもぐりこんでいった。またあるのだろうか、27桁にもおよぶ未聴の警戒性は精神の径庭を携えてもいただろうし、鉛筆のその軌跡の圧力に怯えてもいたはずだ。とするならば、寄せられたそと、外、の豆粒アスファルトの灰街からの「凶」への神秘主義は頷き得ないにしても、ねじ伏せられざるを得ない奇相の終着点は黒いだけだろう。

 

壊れている視覚を追いかけて

 

壊れている視覚を追いかけて、無理強いされた終息への幕間を研いでいたのはカフカースの人。近づくと失う焦点に、意味もわからずに手首の痛みを気にしていたのも町の灰質かもしれないが、いまだ触れたことのない楚歌を用いての新しい言語が見たくて、森の猫目石を大事そうにしていたのも、二艘の小船だった。青さはいつか顔の声を収斂させて、ふたたび喉からアンフォルメル式を手繰り寄せながら、接近しようとするイメージを散乱させようともする。とならば、一つ一つの階梯を無意味な挿入句にあつらえては、大審問官への戸惑いと焦りをあざやかにまとってもいるのかもしれない。

 

神頼みの見えざる手に市場はこんがらがって

 

神頼みの見えざる手に市場はこんがらがって、いまでも次の見えざる手の神を探しあぐねている。L時の逆を向いた閉庫の寄せ合うR性の嘘くささに、とどめられたまま表音は詩に突き刺さっている。それを、掬い上げて人目に曝したところで後ろ向きのガラス細工が構築されているだけなのかもしれない。弾き返されて、時効の焦りに諸鉄を急ぎすぎていたのは語弊という置手紙だったような気もする。聖位置はいつかの憧れと共にあった限りに老いて、繰り返される疲弊の「ただ過ごすだけ」という甘い蜜の濃密な日常を、それでも、。。。。。。は落とされた過剰の区域の固定を、・・・にしてしまうのだろうか。

 

錯綜する緻密さに向けて

 

錯綜する緻密さに向けて、浮き彫りに冴えた丸文字の中を徘徊するベーリング海の言語に、影の祝祭は自らの後ろ盾を失っている。回復はすでに遠のいて、アジアの端から齧り始めた地上の塵のように、黄ばんだ帽子は1mだ。昔日の光を触媒させて、「人」と呼ぶ草原のつらさに線上の隔離は地下への機能も失いかけている。とするならば、磔にされた道化師のむごたらしさをはじめて知ったトイニャーノフの時刻に、外れかけたバネに腰掛けるわれわれは何を思えばいいのだろう。四年はあまりにも淡い格子の粘土細工の苦さを憶えていることもなくて、吐き出されるインクの前進を螺旋している。

 

自らを見つめることがなければ自らの醜さはわからないが

 

自らを見つめることがなければ自らの醜さはわからないが、あれほどまでの二重に滅ぼされた言語の乖離を探すことは足の裏の翡翠のようだ。難問は難問のまま初期の微動を手にされた文書の中庸に閉じられたままにあって、砂の煙さえ一粒の複合的後退を促し始めている。その暗さの明白な理由を尋ねて、「定規」の時計をふたつ並べたにせよ、もとより時間が増えるわけでもないと、ためらいは皮相な「生」をそれでも続けるしかないのだろう。残されて、破壊され行く亀裂の瞬間を数えながら、自らを見つめてゆくのはあまりにも酷であり、裏返された事跡の宛先を鍵括弧にしてしまっていたのかもしれない。

 

あずき色の都市を内省化に伏して

 

あずき色の都市を内省化に伏して、詩人の吟遊を裏側から写し取っていたのは、薬色の蝶番。あいた心の貧しさはかけがえのない水玉の沈黙とあきらめかけて、ずれたソックスを慈しむのも不可思議への迷宮だとしても、子午線の太さをドラム缶に仕舞って飾っておくのもいいかもしれない。忘却は謀りのボタンを押して呼び戻すことができないかもしれないが、パルテノンはいつしかステレオタイプの芸術品にされてしまった。地図型のプロペラは、きっと、分節されたゴシック体のしわぶきさえ怯えにかけながら、筋書き通りのブリキの葡萄を冬に備えている。と、ハシゴを折りたたんでいたのは20世紀の剽窃の空き瓶。

 

 

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